投資日記

ラクオリア創薬、下に山を作っている形で、直近高値を超えたとこ

入したが、出来高増加の気配がなく、結局上昇せず売却

 

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上昇しなかった時点で、速攻損切すべきだった。自分が初めに出した仮説が間違っていた場合、ずるずる保持していてはいけない

 初値が前日より高いところで始まった場合、場中にその価格をまた超えるときに出来高を伴っていれば、買いなのかな

 

 

 

占いで言われたこと

 

 

 占い的にお金との相性はいいのか 

 結論としてはいいとのこと。

お金を儲けるのも、お金を使うのも両方強いらしい。

ただ、最速でお金持ちになるためには、投資の際の原資をより多く確保していく必要がある、そのためには、無駄な支出を減らしていく意識を持たないとダメだなと思いますね。

例えば、コンビニで使うお金って軽視しがちですよね。額として小さいので。でもそういう時は、年間の支出で考える癖を付けるといいらしいですよ。

 

お金について 

あくまでも人生の可能性を広げるための手段でしかないけど、、というのはありますが。

僕の場合は、10年程度遊んで暮らしても生きていける金額が貯まらないと自分が本当に納得して、挑戦できる気持ちにならないと思っています。

人生に余裕を感じれるくらいのお金を持って、選択肢をもう一度考えるという段階まで行きたい。

まずは真剣に億り人になるためにはどうすればいいか考えよう。

それまでは脳死でそれについてだけ考えよう。

リスクもしっかりと考えよう。

やりたいことがないだのは後回しにしよう。

 

 

投資において気を付けなきゃいけない自分の性格

  • すぐに結果がでないとイライラする
  • 細かい計算をおろそかにする
  • エントリー理由とずれた場合にも、自分のことを正当化しようとして、意思決定しようとする

 

 

自己分析

自己分析って、今の自分が振り返るから、あくまで「今の私が思うに」という条件付きだけど、
人生の局所局所で、定期的に振り返っても自分って変わらないなぁと思う部分は割とある。

自分を知るというのは骨の折れる作業や。間違った方法でやると、結果(今の時期でいうとどこに就職したいか)決めてそこから性格を逆算して作るみたいなことも起きる。まぁ個人的にはこれはこれで本人が幸せになるならいいかなという気持ちもあるけども。

俺の場合はたまたま、自分について真剣に考えてる人(京都大学で2年休学してる頭おかしいいとこや、今のルームメイトや、サークルの仲間)が周りにいて、その人たちと、自分のこと振り返る癖がついてたから、自己分析とかあんまちゃんとやらんかったなーって思うけど、面談してるとそんな青臭い話するような友達がいる人ってまぁいないなってすごい感じる。

面談はそういう、普段話には登らないけど自分にとってものすごく大事な話をよく知らない人にいきなりするっていうなんというか変な場だなぁとおもうんやけど、そうやからこそ短期間でも与えることのできる影響は大きいなぁと思うし、中途半端な姿勢で面談するのは自分の時間使って無駄なことしてるなと思うからそういうことはやりたくないなーと思うわけです

 

自分の居場所

環境が変われば前の環境の人間と高確率で疎遠になる。自分は上昇し続けているから、昔の人たちと関わったとしても刺激が得られないとでも言いたいのか。

いつまでコミュニティーを移動し続けるのか、終わりはあるのか

同様に変化し続けてる人に関しては関わっているけど。そう言う人は自分に対して建設的な意見をくれるし関わっていて楽しい。

 

働き方に関しても、この行動は当てはまるのだろうか。

 

そう考えると

 

特定のコミュニティーに留まり続けるよりも、多数の保守派に嫌われてもいいから、制度上生じている不合理を解消し、正当に評価されるべきであると思われる人や物が、正当に評価されるように組織を変える。そういう役割を担いながら、転々と仕事をするのもかっこいいかも。

 

なんでそういうことがかっこいいと思うか、

義に従って判断した時に、違和感を感じたら怒りが湧くからだ。これは過去の経験から、価値基準として明確に自分の中で確立されている上、これからもよほどのことがない限り変わることはないだろう。

まずは成し遂げなければならないこと

僕はいずれ死ぬことになるだろうが、死ぬときに後悔してはいけない。

死ぬときに後悔していないためには、幸せに生きなくちゃいけない。

幸せになるためには自己肯定感を持っていないといけない。

自己肯定感を持つためには、個人としてまず自立しなければいけない。

 

個人として自立するとはどういうことか。

例えば本田圭佑氏は、是非彼にプレーをしてほしいチームからオファーを貰って移籍をした。

僕は僕ではあるけど、「本田圭佑」のように固有名詞として社会的に何か認められているわけではない。

個人として自立するとは、固有名詞宛になにか依頼されているという状況だと思っている。(幼少期の過ごし方によって強い承認欲求を自分は持っているという前提。もちろんこれも向き合っていかないといけない。)

 

今の自分にはそのような「強い個」としての光るものがない。

20代のうちに、「〇〇を頼むならこいつだな」と思われるようなスキル(ソフトでもハードでも)持っていないと絶対にダメだ。

 

でないと、人と話すときに自信を持てず、会うのを避けるという事態になってしまう。

(元々強みがないと人前に出れない性格も強く影響していると思う)

それはつまり、哲学に走ったりするといった、現実世界から目を背ける行動を更にとるようになってしまうことを意味する。

哲学をすることは、もしかしたらいいことなのかもしれないけれど、今はそうは考えられていない。バランスを取っていかないと。

 

 

共感と理解

最近いろんな人の相談を聞いていて感じることがあります。

それは、共感と理解の差ってなんだろうということです。

 

僕は昔から共感性が低いと言われることが多かったのですが、皆さんどうして自分が体験したこともないことで人から聞いた体験談を、さも分かったのように腹落ちすることができるのでしょうか。

 

僕からすれば「わかるよ。それ共感する」とか言われたときにはある種不愉快さを感じます。

 

例えば「昔親にDVされてたことが今の自分の人格形成に大きく関わってしまっている。自分ではわかっているけど、それによって歪んだものは中々変えられそうにありません」という話を聞いたときのこと。

 

「DVで辛かったんだね。わかる」という共感の姿勢を見せるのは、相手からすると、甚だ迷惑なことなのではないのかなと思うのです。

 

だから他者に対して寄り添う感情というのは、理解というのが距離感として最適な気がします。